こころの掃き溜め

特に面白くはない

父親との確執について(4)

0時を過ぎて暫く経ったころ、私たちの乗っている車の後ろに、1台の乗用車が停まりました。おそらく覆面パトカー。

母だけ呼ばれて車内でお話しをしているようで、私と弟はそのまま母の車で待機。

ここでも時間がゆっくりに感じられました。

 

弟と今後についてぼんやり話していると母が戻ってきました。

結論から言って、現時点でまだ先日家宅捜査で押収された薬品の検証が終わっていないので、今日この場でアレを連行することはできないということでした。

正直、私は絶望しました。もう一刻も早くアレを逮捕してほしいのに。

うちにいはいらない存在なのに。

 

その後、さすがにそのまま家には戻れないので、徒歩5分ほどの場所にいる母の実家へ行くことに。深夜でも祖父(当時70代)が起きていて助かりました(叔父=母の弟もいますが後述します)。

母の実家では警察の方々がそれぞれ祖父、母、私、弟に状況説明と事情聴取をしていました。

私についていてくれたのは比較的若くて顔立ちのきれいな男性だったのをうっすら覚えています。

 

母の実家は2階がまるっと空いているので、そのまま3人で使わせてもらうことになりました。

そして、その日はちょっと臭い布団を敷いて、家族で川の字になって興奮冷めやらぬまま眠りにつきました。

 

翌日の夕方、伯父(アレには2人の姉がいて、1番目の姉の旦那さん。今回の騒動も知ってる)から私の携帯に着信がありました。

「慌ただしいときに連絡してごめんなんだけど、じいさん(アレの父親、たしか80代)が死んだ」

「玄関先で倒れたみたいで、ばあさん(認知症)が三和土まで引きずって入れたらしい」

「勿論○○(アレ)のことがあるから、無理に来てほしいとは言わないけど、一応知らせておこうと思って」

「○○さん(私の母)にも伝えてもらえると助かる」

伯父の言う通り、私は電話を切ってすぐ、隣で話を聞いていた母にそのまま説明しました。母は最初びっくりしていましたが、「いや言われなくても行かんわ」と薄く笑っていました。

 

少し日を置いて、祖父の告別式が執り行われました。喪主はもしかしたらアレだったかもしれません。あんなんでも長男だったので。

そして、式が終わるとともに、外で待機していた警察の方々によって取り押さえられ、連行されていったそうです。

 

ここで一区切りついたかなー、とこのときは思っていました。

 

アレが捕まっても、母との離婚が成立していませんので、ここから母は留置所に行ったり裁判所に行ったり色々奔走させられることとなりました。

母から聞くところによると、アレは一丁前にも「俺がここを出るまでは離婚届にサインしない」「俺のいないところで好き勝手されたらいやだ」と文句を言っているようでした。一切理解できません。というか好き勝手やりやがったのはテメエだろ。

それを聞いてから頭に来た私が「留置所に行って話してくる」と私が住所や受付時間を調べようとすると、母が泣きながら「行かなくていい、いいから」なんて言うので、2人して泣いちゃったり。

と、すったもんだはありましたが、6月9日(ロックの日)に無事離婚届を提出しました。母は迷ったそうですが、変更手続きが面倒・母自身、旧姓(漢字1文字)が好きじゃない・弟の名前が苗字ありきになっているという事情から、離婚後も苗字はそのままでした。

 

そうして平和に暮らしはじめて最初の夏、今度は伯母(前述の姉1、専業主婦)から連絡がありました。

「おばあ(アレの母、多分80代)が、家で亡くなってた」

聞くと、伯母は毎週決まった曜日に祖母をデイサービスへ送迎していたようです。その日も家へ迎えに行き玄関をあけると、ムワアッとした熱気が出てきて、入ると窓は閉め切られている。呼びかけながら祖母を探すと、台所で熱くなって倒れていたようでした。完全に老人の熱中症

自宅で亡くなってしまったので色々面倒だったようですが、もうアレも捕まっていることだし……と、義理を果たすために葬儀に顔だけ出すつもりでした。

結局、香典を受付に渡して記名したときに「あの…ご親族ですか?」と言われてしまい、場慣れしていない私と弟はそのまま親族席に座らされてしまいました。母はすぐ帰るつもりでいたので、外で車を周回させて待機していたのですが、式中に携帯を触るわけにもいかず。

 

祖母はもうずっと前からボケが始まっていたので、アレが捕まったことは知らせていませんでした。なんにも知らないまま死ねていいなあ、と母が呟いていた記憶があります。